妄想・縄文生活
縄文について語られる時、「平和」という言葉がでてきますが、昨日の記事「ジャイアン??」でアニメ化されたネアンデルタール人について打ちながら以前から思っていたことが、また出てきました。
「和することが日本人らしさ」ではありますが、和することとは協調することになりますね。 はたしてみんながみんな協調性があって楽しく暮らしていたのでしょうか。
小さなコミュニティで、ある程度の気の合う人たちが暮らしていたなら天国のような世界ですが、気候が暖かくなると、関東は世界一の人口だったという説もあるようです。
東北など地域によっては、少人数で暮らしていた人たちもいたようですが、人口密度が多い地域でもコミュニティを分けて上手く住み分けていたのでしょうか。
いつの世だって、一定数の曲者や悪人のような人はいるはずですし、1人の人間には多面性があるものです。集団の中でフラストレーションがたまることもあるでしょう。
略奪や殴り合いなんてことも、あっただろうし、なかには小狡くてだましたり、盗んだりする人もあっただろうと想像します。
その時代の人に聞いたら、それぞれにその時の想いがあるでしょうけれど
「いや〜、しんどかったよ〜。動物から襲われそうになるわ、腕力のあるヤツに殴られるわ、こき使われるわ、とほほだよ。」
って言う原人もいるのではと妄想してしまいます。
冒頭で指した「平和」とは、大きな意味で使われるのでしょう。
大量に旧人などが殺されたりしなかったことには、アニミズムの考え方が助けになっているのではないかとも考えます。
本当の意味で人格者とされる人が、長の役割りをして小さなコミュニティを守っていたのではないのでしょうか。
アニミズムの考えでは、万物に霊が宿ります。つまり自然の中のヒトである相手にも自分の中にも神のようなものが宿っているのです。
そうした哲学を極めた人は、原始の敏感な感覚の人々には尊敬され長と認められて、各所にそのような長がいたのではないか。と、今は考えます。
もしそうだとしたら、理想的な社会ですね。
縄文には興味があるし、憧れに近い眼差しでみてはいるものの、今の私がその時代に行ったとして、体力的にも精神的にも全くもって貧弱で人間として見られないだろうなと、これまた妄想です。
平和と言われている現代だって、いつでも穏やかではありません。やはりいつの時代も、その時代を生きている人にとって波風のないときはないのではないかと考えるのです。
そこで「平和な縄文」ということを語るとき、同時にケンカしているヒトや縄張り争いしているヒトを妄想しているのです。
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